家族&地元

私の中のやさしさを育ててくれたもの

今朝、私の入っているオンラインの国際協力サロンの教育勉強会がありました。

今日のテーマは「教育格差」。

発表は早稲田大学の大学1年生がしてくれたのですが、その内容がものすごく勉強になって、これからの私のプロジェクトにも大変参考になる考え方をいただきました。

 

前からうっすら思ってはいましたが、私が今持っている能力、環境、健康、仕事って、本当に何もかもそうやって様々なものを手に入れられる「環境」があってはじめて手に入れられたもの。

だから、自分から作り出したもの、自分で手に入れたものなんて何にもなくて、たまたま努力できる環境がある家庭に生まれただけなのです。たまたまなのです。

 

今、こうして教育支援をしようとしている自分。

まわりから見たら、やさしい人だなとか思ってくれる人もいるのかもしれない。

仮にその一部が本当だとして私の中にやさしい心があるのだとしたら、そのやさしさを育ててくれる環境を与えられたからなんだと思う。

 

その根っこの部分を育ててくれたのは、誰なんだろう?

 

きっといろんな人が私に愛を注いでくれたんだろう。

でも、やっぱり、私の根っこが育ったのは家庭だと思う。

 

とにかく、まわりも自分も思い出される限り、小さい頃の私というのは、本当に本当にわがままで、気に食わないことがあれば相手が泣いて謝るまで暴力でねじ伏せるというどんでもい野郎でした。

相手が泣けば勝ち。

と思っていて相手が泣く方法、つまり、痛みを伴うことをすれば、すべてこちらの勝利だと思っていたのですよ。

(改めて、言葉にしてみると、どんでもないやつだな。)

そんなちょっと気性がヤバめの私でしたが、家族は大切に育ててくれました。

 

まず、父。

私は、自分が記憶する限り「無条件の愛」というものを初めて感じたシーンをよく覚えています。

私は、イチゴが大好きで一粒でも多く食べたい食べたいと思っていました。

家族5人で分けられた夕食のイチゴ。

自分への配分は、せいぜい3粒程度。

それでも、一粒一粒が幸せをくれて、あ~、おいしいな。って味わっていました。

でも、そんなのは一瞬で、すぐに自分のお皿からイチゴは消える。

 

その後、夜遅くに仕事を終えて帰ってきた父。

父のためにとっておかれている夕食。

そこには、まだ3粒のイチゴがある。

私は、冗談まじりで

「イチゴいいな~。食べたいな~。」

と、言ってみると

「しょうがないな~。」

と言ってくれる父。

残り2粒。

 

別に、もう満足だったけど父をからかいたいのもあって、

「もう1個食べてもいい?」

とおねだり。

「も~、しょうがないなぁ~。」

と言ってくれる父。

ラスト1粒。

さすがに、最後の一粒はくれないと思ったからこそ、

「これも食べてもいい?」

と遊び半分で言ってみた。

すると父は、

「もう、全部あげるわ。」

と笑いながらくれた。

 

あの甘くておいしいイチゴを!?

全部くれるの?

お父さんは、一粒も食べていないのに、

幸せで自分の身体を満たしてくれるイチゴという食べ物全部くれるの?

自分は、その幸せ味わわなくてもいいの?

 

私は、ただ冗談で言っただけで、むしろ私は父が「あげないよ~」といって、じゃれ合ってくれることを期待していただけなのに、父は本当に全部そのイチゴをくれちゃった。

正直、その時は父のその行動が理解できなかった。

なんで、こんなにおいしいものを自分は食べないで私にくれちゃうんだろう?

変な人。

ひとつくらい食べたらいいのに。

食べたいなら食べたらいいのに。

でも、そのイチゴを全部おねだりする私にあっさりとくれてしまった父。

 

父の行動は理解できなかったが、その時私はお父さんにとってイチゴよりも大切な存在なんだというメッセージをうけとった。

大袈裟かもしれないけれど、自分の幸せなんかより、誰かの幸せを願って、人に与える行動というものが、この世には存在するということを知った。

 

 

あの時のイチゴの甘さは、もう記憶にない。

でも、あの時の父の私への甘さは、今も、これからもずっと忘れない。

 

あの時の3粒のイチゴは、今日私が誰かにやさしくできる力になっていると、私は確信している。

 

ありがとうございます。

 

思ったより話がボリューミーになってしまったので、今日は父の話だけ。