グアテマラでの生活が、私には合っている。
そう思うのは、なぜかということを書いてみたいと思います。
一言で言うと、ここで生活していると
「自分の無力さというものを体感でき、人間としての身分をわきまえることができる」
から。
どゆこと??
昨日ですね、グアテマラに来て初めての停電があったんです。
隊員時代も、ちょこちょこ停電があり、全然仕事ができないことはよくあったんですね。ですから、こちらに来るときも、オンラインで仕事をしながらやるのであれば、この停電問題は死活問題で、これだけがとても心配でした。
でも、こっちにきて1か月、停電がなかったので、グアテマラもだいぶインフラが整ったのかな?と思っていましたが、昨日は突然午前9時から停電が始まりました。
幸い、この日は日本とつなぐオンラインは午後の6時からだったので、多分電気は戻るだろうと思いましたし、ケータイで買った通信パケットもあるので、最悪2時間くらいのレッスンは乗り切れるだろうと思っていました。
結局電気が戻ったのは、レッスン開始の10分前の5:50頃。それまでの9時間は、電気のない生活をしました。電気が止まると、もちろんPCやケータイの充電ができないので、今ある充電がなくなったら、終わり。
でも、そんなこともあろうかと、日本からもってきたプチソーラパネルくんが、とっても役立ちました。
しかし、電気がないということは冷蔵庫も止まってしまうため、中にある食材も大丈夫かなぁと心配に。最近は、食べる分だけちょこっと買って調理するので、そこまで冷蔵庫にストックがなかったため、これはなんとかなった。
あとは、シャワーを浴びようと思って服をぬいだとき、「あ、お湯出ないやん。」と気づく私。
でも、前日バタバタしていてシャワーを浴び損ねたので、どうしてもその日は浴びたかった。電気が戻る夜を待つと、それはそれで寒いので、日中に浴びたい。そう思って、水シャワーのを浴びることを決意。
こちらの気温は、現在大体18~22度くらいなので、昼間といえど水シャワーは寒い。でも、ぶるぶる震えながらも体を洗っていると、いろいろ気づかされる。
そもそも、お湯がでることが当たり前ではないこと。
こういう不便さを体で味わうことで、日常にどれだけの恵みがあるかということに気づかされること。
快適な暮らしができるのは、自分がえらいからではなく、社会に守られて、いろんな人の知恵が集合してでき上がった文明に支えられて、実現できているということ、
そういうことを教えてくれます。
日本では、こういうことがない。
快適すぎる生活が当たり前すぎて、それに気づかされるチャンスなどこれっぽっちもない。
だから、つけあがる。
自分一人でなんでもやっていると思いあがってしまう。
でも、人間一人の力なんて自然の中ではミジンコ以下のである。
お湯を沸かすのだって、火をつけるのだって、安全な水を確保するのだって、自分一人でやれと言われたら、どれだけ時間がかかるだろう。
グアテマラで突如やってくるこの不便な停電問題は、そういう自分のつけあがった勘違いを正してくれる。自分がいかに無力であるかということを教えてくれる。日々の恵みを思い出させてくれる。
私は、だから、こういう不便なグアテマラの生活を愛している。
逆に、日本はそういう恵みに気付くのになんと難しい国だろうかと思う。
すべてが計画通りで、すべてが整っていて、何をするにも便利で早い。
そして、それがいいことだと信じられている。
でも、私からしたらそれは危険性も含んでいると思うんですよ。
便利さの裏で私たちはいろんなものを失っている。忘れている。
だから、私は日本で生活していると、心がどうも窮屈さを感じるのです。
グアテマラでは、予期せぬことが日々起こります。この前も、いざ自分の元任地サンティアゴアティトランへ行こうと思ったら、突然道端でデモがはじまり、道が封鎖され、ここの町から外へ出られないという事態が起こりました。
(「政府の取り決めに反対!」と書かれた張り紙をはったトゥクトゥクやタクシーが道を封鎖。真ん中では、人々が口論している模様。)
そこで、急遽予定を変更せざるをえなくなりました。
ここで、イラついたって、ぐちったって、しょうがないのです。
すべては、無秩序で計画通りにはいかないことが、ここグアテマラでは常。
だからこそ、自分の臨機応変さが鍛えられるし、思考の柔軟性が養われる。
そういう環境であるからこそ、自分って人間が磨かれていく感覚があります。
だから、私はこの不完全で無秩序で不条理なこの国の生活を愛しています。
(時に、本当に嫌になることもあるけれど…。)
これからも、この国とお付き合いしながら、自分っていう人間を磨いてもらいたいと思っています。