心と会話

心の中にあるちょっとした葛藤

今日の反省の続きなのかもしれない。

 

実は、少し前から思っていることがありました。

 

それは、

「私、自分があまり有名になるような道は、歩まない方がよいのではないだろうか。」

ということ。

昔は、どこかで有名になりたいと思っていた気がする。

なんというか、人と違うことをして、認められたいというか、目立ちたいというか…。

そうやって他人から認めてもらえる人生を送って初めて、自分という人生に価値がある気がしていた。

 

でも、最近根本の考えが変わってきていて、他人から認められるとかどうでもいいから、自分自身が納得できる生き方を貫いてみたいと思っている。

自分にとっては、それはやっぱり「恩返し」というモチベーションで、

人生、恩返しだけでも時間が全然足りないものなのではないだろうか?と思っている。

やりたいことがみつからない。

と人はよく言う。私も長いことよくわからず生きていたけれど、自分の立場をわきまえてみれば、いかにここまで人から与えられて生かされてきたかということを感じずにはいられない。

人だけではなく、この地球や宇宙や偉大ななにかに生かされて、ここまで生きてきた。

それなら、今は自分の人生で出会った人に返していくだけでもう精一杯だし、これ以上多くの人とかかわりを持ってそこに時間と体力を使っていったら、私がすべきことを見失っていくんじゃないかって気がしてきているのだ。

 

だから、私なんかは有名になる必要ないし、私一人が多くの人を動かすよりも、みんながそれぞれの場所で行動できる社会をつくっていきたいと思うようになってきた。

だれかの一歩を踏み出すきっかけとして、自分の人生が生かされたらうれしく思う。そうやってまわりとつながりながら、エネルギーの波紋が広がり、一人でも思いを行動に移すことができる社会を作っていきたいと思う。私一人でやるより、みんなで行動する方が、もっともっと大きな力になるってことは、明白であるのだから。

だから、私なんかが有名になるような道を歩む必要はないんだと考えるようになった。

目の前の人を幸せにすることを考えるだけで、十分ではないか。

 

でも、不思議なことに最近、ご縁でいろいろな方からお声をかけていただけることがあり、見ず知らずの私とお話したいと言われたり、自分のことを記事やインタビュー、イベントで取り上げていただけることがちらほらあります。

昨日も、初めてオンライン録画式のインタビューを受け、ありがたいと感じるとともに、「こんな身分で偉そうなことをほざきよって!」と心の中の自分の声もあったり。

確かに、外部からお声をかけていただけるのは、非常にありがたいし、うれしい。でも、あまりそれに流されすぎないようにせねばとも思う。世の中には、おいしい話がごろごろあるけれど、時にそれは自分の志や本来の姿を見失わせてしまうこともあるのではないかと危惧する自分もいるからである。

それに、あまり私のことが知られすぎて、いろんな人と新たなご縁でつながっていったら(もちろんそれはうれしいことだけれど)、今まで私を大切にしてくれた人や私が大切にしたいと思う人に使える自分の時間と気持ちが減ってしまうのではないだろうか?と心配にもなる。

 

ここのバランスって難しいのかもしれない。

なんでもかんでも目の前のおいしい話に飛びつくのではなく、一つ一つその意味を考え、自分が納得できるものを選んでいきたいと思う。