よくまわりは私をがんばり屋さんだとか努力家だとか言ってくれますが、自分は自分がどれだけ怠け者か知っております…。
ほんっと、気分屋の自分。
スイッチ入るとががが~っと行動するんだけれど、そのスイッチが切れるのもすぐ。
継続は力なり。
ってこと、よくわかっているはずなんだけれど、それがなんと難しいこと!
それでも、今までの人生の中でよく頑張ったなって思うこともある。
一つ目は、高校時代のバスケット。
毎日、朝も昼も夜も食事も家の過ごし方も髪型も、すべてがバスケット中心の生活。
筋トレは1000回がノルマで1年のころから毎日続けたのはきっと私だけじゃないだろうか。
練習前も練習後もお昼休みも、誰よりも長くコートで練習したとも思う。
なんであんなにやれたのか。
・チームで一番下手だった。(常に自分の未熟さと向き合わなければいけない現実)
・先生に認めてもらいたかった。(見守っていてくれる存在)
・仲間のためにうまくなりたいと思った。(自分の成長はほかの人にも影響するという責任。)
二つ目は、短大時代の英語の朗読会の練習。
鬼教授O先生のもと、罵声を浴びさせられながらも多くの作品に挑戦した。日本語でも時間がかかるだろうであろう量をすべて丸暗記、発音練習、表現練習、そして怒られるというサイクル。それでもめげずに食らいついた。
・ほかの子みたいにかっこよく英語をしゃべってみたかった。(毎回、発音がドヘタだと罵倒され、くやしかった!)
・鬼教授をぎゃふんと言わせたかった。(鬼でも、その実績と実力をめちゃめちゃ尊敬していた。)
・一緒に作品をつくる仲間、見てくれる観客がいた。(ひとりじゃない、みんながいる!)
自分が頑張れていた時のことを振り返ると共通しているものがあることに気づく。
・自分の未熟さをよく把握している。
・見守ってくれる人、目標とする人など、偉大な存在がいる。
・誰かのためにというモチベーションがある。
そう思うと、今の自分はこの点にのっかりきれていないところがあるなぁ。
・未熟さの把握 → まぁ、いまはこんなもんでしょってどこかで思っている。スペイン語も、算数のこともまぁ、ぼちぼちやっていけばいいでしょって心のどこかで思っている。
・目標とする偉大な存在がいる → 近くでいつも常に導いてくれる人はいないが、目標とする人との出会いは与えもらっている。どんな人になりたいのか?どんな自分を目指すのか。もう一度ちゃんと問いかける必要あり。
・「誰かのため」の「誰」があいまい → 私は誰のために、いまここにいるの?この仕事、勉強は誰のためのものなの?そこを具体的に考えていないから、やっていることが気分任せ。自分のためだといくらでもさぼっちゃう。目の前の時間の使い方が、誰かの何かにつながっているって本当に理解していたら、適当になんてすごせない。
自分を追い詰める生き方に疲れていた自分。
いつも目標を自分の能力以上の高さに設定するため、身を削りながら生きていた自分。
できない自分を許せない、不器用な自分。
そういう自分から抜け出そうと、なるべく無理しないように、焦らないように、そのままの自分のペースで…と考えながらやってきたここ数か月。
でも、最近ちょっと思っている。
そうやって無理しないように無理していない?
(なんか日本語変だけども…。)
やっぱり本当の私は、もっとストイックさを求めているような気がする。
グアテマラのまったりした時間の流れは好きだ。
しかし、自分の情熱までまったりする必要はないのでは。
本当にやりたいこと、
自分の使命だと感じていること、
そこはがんがん行くのが自分なのではないか。
そういう生き方が、私はしっくりくる気がしている。
かれこれ28年以上生きさせてもらっているのに、いまだに自分のペースがつかめません!
もうちょっと自分試行錯誤してみます。
今日は自分との会話です。
お付き合いありがとうございました。
今日のお昼は、マリの家で日本食づくり!
これまた簡単、かつ外れない、親子丼とみそ汁!
それに今日はブロッコリーの胡麻和えも加えやした。
8人前もどんとこい!
みんな、喜んでくれました★
うふふ!
ここ最近、大雨がすごい。
振り出すとすごい量!
お仕事やお勉強をおうちでやるときの景色。
写真じゃ伝わんないだろうけれど、めっちゃ強いです。
でも、雨の音、嫌いじゃない。
むしろ、好き。
さぁ、新たな一週間。
がんばりましょう!