心と会話

「やさしさ」とは何かを考えてみました。

昨日の夜、

そして今日の朝、

些細なことで自分の心がイラついていることに気がつきました。

あ~、自分ってなんて心が狭いんだろう。
もっとやさしい人間になりたいのになぁ。
もっと心の器を大きくしたいのになぁ。

なんて考えておりました。

でも、そもそも「やさしさ」ってなんだろう。

やさしさ、

やさしい人、

やさしい心、

思えば、日本人は「やさしい」という言葉を使うことが好きだよな。
そして、「やさしい」と言われることに対して、とても価値を置いている民族ではないだろうか。

でもさ、

「やさしい」

って考えてみれば、すごくあいまいではないか?

やさしいって何なの??

 

少々イラついてしまった自分を抑えるためにも、私は「やさしさ」という言葉の自分なりの定義を考えてみた。

やさしさとは、

「他者に関心を持ち、その人の気持ちを慮り(おもんぱかり)、
相手が感じているであろうその感情を一度自分の体内に入れて、
体全身でその感情を感じ、その体が欲するものを思いめぐらし、
もう一度元の自分に戻って、今の自分がその相手に送れる最大のものを提供すること。」

 

長い!

これでは、定義とは言えない!笑

定義とは言えないが、なんとなく使っていた「やさしさ」というものがうまれるステップを少しだけ具体的にできた気がする。

これをもう一度段階ごとに整理してみると…

①相手の気持ちを想像
②自分事として全身で感情を味わう
③相手の痛みや困難を和らげるものを想像する
④今の自分ができることを考える
⑤実行する

これを目には見えない「やさしさ」が形になる5ステップと名付けてみよう。

 

でも、この5ステップが分かったからといって、じゃぁこれに従って明日から生きていきます!

って言って、やさしい人間になれるほど、私たちは単純な生物はない。だけれども、もう少しそれぞれの段階について考えてみたい。

 

まずもって、①の「相手の気持ちを想像」するには、自分の中に過去に感じてきた豊富な感情バライエティがなければ、よりリアルなものは想像できなだろう。

だから、きっと年を重ねる中でもっといろんな感情を自分が味わっていき、私の中のやさしさも育っていくのかもしれない。

 

ステップ②の「自分事として全身で感情を味わう」というところも難しそうだ。
誰かが抱いている感情は、その人だけに与えられたものだから100%コピーはできないだろう。

でも、相手に最大の関心をもち、「この状況だと、どんな感情になるのだろう?」と想像力を働かせることができるかどうかかな。

もしかして、日ごろから妄想大好きの人は、ここが得意かもしれない。

とにかく、他者の痛みを「自分事」として一旦想像の世界を泳げるかだと思う。相手への関心がなければ、その世界には入ることができないだろう。

だから、自分の幸せが最優先の人は、多分ここができない。

 

③の「相手の痛みや困難を和らげるものを想像する」は、②の延長線上にあるものでしょう。

自分だったら…。かな?

もし〇〇してもらったら、助かる…。かな?

こんなことがあったら、うれしい…。かな?

という、もし〇〇だったら、~か?と考えてみる。

(多分、本当にやさしい人はこの段階をスキップして瞬時に行動ができるものなのかもしれない。)

 

お次は、④今の自分ができることを考えるだ。自分というちっぽけな人間は、なんだってできるわけではない。例えば、彼氏にふられた友人が一番ほっしているものは、彼とよりをもどすことだろうが、私は彼の気持ちをどうこうする力はない。

この世には、自分の力で変えられないものが本当にたくさんある。だから、自分にできることに集中し、その中でやれることを考える。

それは、言葉だったり、ものや時間の提供だったり、行動だったり、いろいろだろう。

でも、一番真実を語れるのは、「まなざしを向ける」ことではないだろうか。

私、この部分のところを想像したけれど、自分には誰かの痛みを和らげてあげるなどそんなたいそうなことはできる気がしない。でも、なんとか和らげたいという気持ちだけはある。そういうとき、まずは自分の中にある誠の気持ちを「目」で伝えたい。

言葉にできない、
何をしたらいかわからない、
与えられるものもない。

でも、思いだけは、あなたの横にいるんだよ。

そうやって伝えたい。

最後に、⑤実行する。だ。

私は、よく考えるには考えるが、行動してこなかったことがた~~~~くさんある。

〇〇したほうがいいんだろうな。

とは、思っても、やれない自分がたくさんいた。

それは、なぜだろうか。

「自分が一番大事」だから。

誰かのために行動するということは、自分の持っている資源を提供すること。

それは、モノ、時間、お金、体力などなど。

でも、これって同時に「怖れ」という感情もわいてこないだろうか。

だって、自分が持っているものを手放すことは、怖いもの。

もし、持っているものをどんどん手放していったら、私、何もなくなっちゃわない?

私に価値がなくなっちゃうんじゃない?

幸せになれないんじゃない??

だから、「考える」と「実行する」というものの間にははやり大きな壁があり、これまた全然別物なのではないかと思う。

「結局は〇〇しなかったけど、思ってはいたのよ。」

と弁明したところで、全然真実味がない。

きっと、真実の想いならば行動せずにはいられない。

もしくは、行動することで、その思いが真実になるという逆のパターンもあるかもしれない。

 

今日、あらためて日ごろよく使っている「やさしさ」についてじっくり考えてみたが、結局「自分の命が何よりも大事」という前提で生きていると、本当のやさしさって生まれないんじゃないかと思った。

でも、世間では

「自分の幸せをつかむために、行動しよう!」

というメッセージがものすごく強い気がしている。

確かに、自分の幸せは大切なものだろう。でも、私は、それは本当に最優先事項なのだろうか?と思ってしまう。

自分の命よりもや大切なものがある。

そんな状態が、私にとっては幸せの定義かもしれない。

 

そんなこと言っている私も、まだまだ真のやさしさを生み出せるほどの心の器がないと感じる毎日を生き、日々修行だなぁと思っております。