常を養う。
をテーマに養常中のセニョリータ。
「あ~、もうやめようかなぁ。」と思いつつも、宣言した手前、こんなにも早く投げ出すのはカッコ悪すぎなので、一応続けていることがいくつか。
まず、朝4時起床。目覚ましをかけ忘れた1日を除いては、ほぼ毎日実行できている。
そこから2時間は、モーニングノート、勉強、お仕事のレッスン。
それから、毎月100km走るということを目標にほぼ毎日6km走っている。今日で今月は通算50km達成した。もともとアスリートだから、走っていると本来の自分を思い出している感覚がある。今後も続けたい。
さて、表題のことである。
奇妙なタイトルだ。
数字打ち間違えたんか、こいつ?
と思われるタイトルだ。
今日ランニングの際に、ふと考えていたことを書きだそうと思う。
いつもは、英語の勉強を兼ねて英語の音声を聞きながら走るのだが、今日はケータイが勝手にHYをかけ始め、その美しいメロディに心がときめいちゃって、そのまま聞いていた。
音楽というものは、実に不思議である。
自分をタイムスリップさせてくれる。
HYを聞いていると、ある人を思い出す。
何度も涙したあの日々を思い出す。
するとなんとランニング中に涙があふれてきた私。
なんなんだこの音楽の威力は!!
ランダム再生のケータイは、次は平原綾香のジュピターを流してきた。
これを聞くと、高校時代ダンス部がこの曲で踊っていた姿が頭に浮かんだ。
あの子の踊りは実に美しかった。
音楽1つで私は、どの時代にでもタイムスリップできることに気づいた。
B’zを聞けば中学生に戻ることができる。
SPEEDを聞けば、小学生に戻ることができる。
ケツメイシを聞けば、大学生に戻ることができる。
私に頭には、どれだけの音楽が入っているのだろう。
その音楽と共にどこへでもタイムスリップできる人間の頭は、一体どうなっているの?
本当に不思議な生き物である。
頭の中でいくらでもタイムスリップできる人間。
ただ、タイムスリップできないところもある。
それは、未来だ。
私は未来を知らない。
そこにはどんな世界があって、どんな人間が生きているのか。
100年後、この世界がどうなっているのか、私は見ることができない。
そこには、どんな音楽が流れているのか、私は聞くことができない。
でも、きっと確実に100年後という時は、存在する。
きっと人間だって存在しているだろう。
タイムスリップがかなわないなら、せめて手紙を書いてみたいと思った。
そちらは、今どんな世界を生きていますか。
サンティアゴアティトランの美しい湖と火山は、今も残っていますか。
小学校の先生は、かけ算ができることが当たり前になっていますか。
分数や小数の計算問題ができる子どもも普通にいますか。
学校へ行きたい子どもたちは、みんな自由に勉強ができていますか。
タブレットよりももっと進化した何かで学んだりしているのでしょうか。
インターネットは、インフラとして水と同じような感じでみんな手にできているのでしょうか。
日本では、世界とつながることが普通になっていますか。
2か国語話せることが日本でも当たり前になっているでしょうか。
子どもたちは、元気に遊びまわっていますか。
そういえば海外への移動手段って、今も飛行機ですか?
空飛ぶ車とかで個人で行けたりします?
対して想像力がない自分がいることに気が付けた。
100年後の未来へお手紙書くのはなかなか難しいものだ。
自分はせいぜい数十年先くらいまでしかイメージして生きていない。
でも、私たちはもっと日ごろから100年先の誰かのために、行動してもいいのではないだろうか。
多くの人間は、今の時代だけにしかフォーカスしていない。
だから、地球を汚しても、自分事ではないし、そんなに気にしていない。
確かに目の前の人のために行動すること、今の時代を生きること、それが最重要課題だ。
でも、時代はつながっている。
今の時代は、過去の誰かのおかげである。
私たちの次の時代は、今の私たちに責任があるというのは、事実ではないいだろうか。
たまたま見ていたYoutubeで
「何年先までを考え、行動できるかが、その人の器だ。」
と言っていた言葉が印象的であった。
私は、自分がこの世からいなくなったその先の未来を、もっと本気で頭に描き、そしてそのために今に命を燃やす生き方をしたいと思った。
今は、ここサンティアゴアティトラン市の100年後で実現してほしいと願う教育環境のために、その一助を担うための本気の活動へ向けて、今年踏み出したいと思う気持ちがより高まった。
器がほしい。
それを作り上げていくための、養常。
明日も4時起き&ランニングはしよう。
2022年、とあるセニョリータより。