忘れちゃっている。
「あるもの」の存在について。
朝起きる。
心臓が動く。
美しい朝の雲。
おはようという家族。
おいしいごはん。(しかも日本食!)
心を洗う秋風。
生きたいところへ自分を運ぶ足。
伝えたいことを文字にする手。
自分を待ってくれている子ども。
確かに、あるじゃないか。
今そこに、あるじゃないか。
それが見えなくなった時、
あるものに感謝できなくなった時、
自分の人生は、とても暗いものに見えてくる。
さて、明日からまた小学1年生との一週間が始まる。
自分の喉が使えないという事実を受け止めて、私は考えてみた。
「声を使わなくても授業ができる方法はあるんじゃないか?」
例えば、国語の音読。
本当は、範読してあげたい。
でも、今はそれすらも喉が痛いのだ。
だから、電子教科書の音声に頼ったりするわけなのだが、なんだか味気なかったり・・。
でも、よく考えてみると、クラスにはすでに音読がめちゃくちゃ上手な子が何人かいる。
その子たちに次の単元に入る前から事前に音読の練習しておいてもらって、何人かで分担して私の代わりに他の児童の見本となるように範読をしてもらえばいいのではないだろうか。
また、カタカナや漢字指導も、私がやらなくてもそれぞれ有志で私を助けてくれる子どもを募集し、一人一文字担当してもらって、その字の書き順、ポイント、読みなどを前でやってくれる子をつくったらいいのではないだろうか。
あとは、連絡したいことは前もって紙に書いておいて、文字がある程度すらすら読める子(まだすらすら読める子はそこまでいないのだけど)その子に朝の会などの連絡をしてもらったらいいんじゃないだろうか。
そして、すぐに騒がしくなる学級なので、音楽で使ったタンバリンか鈴でも使って、
シャンシャンシャン=「聞いてください」
などの合図を決めたら、大きな声を出す必要もないかも。
一年生では、発言時の相互指名(子ども同士で発言する子を当てる)はできないかなと思っていたけれど、やってみようかな。
そんなことを考えていたら、もしかして子どもたちは逆にめちゃくちゃ成長するんじゃないか?
ピンチはチャンス。
子どもも、先生を助けるぞ~!と盛り上がるかもしれないし、
自分の働きが先生のためになっている!
と実感できたら、自己有用感も高まるかもしれない。
失ったものがあっても、あるものはある。
そして、その失ったところに、新しいものが舞い込んでくるチャンスかもしれない。
なんだか、明日が来るのが楽しみになって来た。
少し自分の人生に光が差した気がした。