発見

隔離生活1日を終えて気づいたこと

現在、羽田空港近辺のホテルにて寝床と3食のご飯を与えていただいて生きています。

誰にも会わず、お部屋のドアノブにおいしいお弁当がかけられてあり、食べ終わるとごみも回収してくれます。


(すべてがおいしくて、感動の嵐)

 

こんなにいろいろとしてもらっているのに、お礼を言える対象がいないことがなんだか違和感があり、いつも一言声に出して「ありがとうございます。」と言いながらお弁当を受け取っております。

3日間、本当に誰にも会わず、このホテルの部屋から一歩も出ないのですが、1日目を終えて気づいたことがあります。

 

(この強制隔離の生活って、グアテマラの日常とあまり変わらなくない?)

 

ということ。

もちろん、便座が温かいこと、弁当がおいしいこと、ノミダニがいないことは絶対に違う。

でも、誰にも会わない、部屋の外へ出ないという生活スタイルは、私が過ごしてきたグアテマラでの生活とほぼ一緒。

グアテマラもコロナがひどい時期は、本当に外に出なかったし、私の活動の8割はオンラインだったので、家の外に出ることもなく、一日中部屋から出ないこともしばしば。

ある意味、やれることは限定されていたし、会える人も限られたていたからこそ、目の前のやれることに集中できたのかもしれない。

 

制限があるということは、悪いことではないと最近よく思う。

できることが少ないと、その中でできることに集中できる。

私は、囲いがないとどこまでも自由に羽ばたいてしまいそうなので(笑)、ある程度制限がかかった環境の方が、思いっきり力を尽くせると思う。

だから、私は今は自分の人生で出会った人に限定して、力を尽くしていけばいいと思っています。

地元に帰ったら、まずは家族のため、甥っ子、姪っ子の将来のため、その甥っ子、姪っ子と同世代の近所の子ども、自分の同級生の子ども、そんな風に顔が浮かぶ対象のために、やれることを探してやっていこうという気持ちです。

囲いはあっていい。
限界もあっていい。

ピアノの鍵盤には限りがあるからこそ、作曲家は美しい音楽を生み出せるのである。

私の命など、限られたもの。
無限の力なんてないのだから、有限の中でやればいい。