つぶやき

死への準備

「死」というものについて私は日常的によく考えたりするのだけど、それって私だけですか?

幼い頃、自分がいつかこの世から消えるという事実を知ったとき、それはとても受け入れ難いものだった。

そして、自然の摂理で言えば、自分の親が先にその順番が来るのだと知った時も、とてもショックだった。

私は、そのことが悲しくて悲しくて、ベッドの中で1人、いつの日か今触れているお母さんの温かい手に触れられなくなる日が来ることを想像して、涙していた。

確かそれは小学生の中学年くらいだったと記憶している。

小学4年生の時は、ノストラダムスの予言を信じまくっており、「自分はもうすぐ死ぬのだ」と毎日思いながら生きていた。

「死」というものが怖くて怖くて仕方なかった。

大人になって、人生が願ったように進まず、自分の運命を恨んでいた時、何度も何度もこの世から消え去りたいと思っていた。

死にたいってことじゃないけれど、ふっとこの世界から消えられたらいいのにって、夜ベッドで眠りに着くときに日々そうやって思っていた。

私の人生は、失敗作品になっちゃったな。

親を喜ばせることもできなかったな。

過去をやり直すことはできないし、未来も別に楽しいことはなさそうだ。

生きている意味あるかな?

そういうことを考えて、私は何年も過ごしていた。

今思うと、何がターニングポイントだったのかわかるようでわからないのだけれど、ある時、思ったんだよね。

「もう自分の幸せを目指して生きるのはやめよう。」

と。

自分は幸せにならなきゃいけないんだと思っていた。

それは、自分を愛してくれた人のため、

自分の孤独を埋めるため、

世間のスタンダードに合わせるため、

本来もって生まれた人としての欲を満たしながら生きるため。

そうやって生きなければ人としてダメな部類にわけられてしまうと思っていたから、なんとしてでも幸せにならねばならぬのだと。

ただここまで幸せにならねばと思って生きてきて気づいたのだけれど、自分の幸せを願って生きていても、全然幸せと思えない。

そして、ある時、もう幸せになることを目指すのはやめよう。

別に孤独に死んでもいいじゃないか、

成功しなくてもいいじゃないか、

誰からも愛してもらえなくてもいいじゃないか、

ただ、この命を燃やして燃やし切って死ぬことだけで、自分の誠だけを貫けた人生だったら、最期の瞬間にこれでよかったって思えるんじゃないか。

そう思ったんだ。

他人からすれば、「開き直ったか」を思われるだろうけれど、自分としてはそんな安っぽい言葉で表現できるものではなく、目の前にある運命をそのまま受け入れようと覚悟を決めて、怖さをもちつつも、突き進んでいくことが真実だと思ったんだ。

それは大変な痛みを共にしたし、誰とも共有はできない苦しさがそこにはあった。

今もそれを誰かにわかってほしいと思わないし、この痛みは自分だけに与えられたギフトだと思っている。なぜなら、その痛みの強さの分だけ私は人に対して真に優しくなれる力が与えられたということになるのだから。

自分がいなくなった後の未来はどうなっていくだろう?

その未来で、何かしら自分の魂が後世に残っていく働きをしたいと思っている。

その時名前は語り継がれなくてもいい。ただ、最期の瞬間に未来への希望に胸を踊らせながらこの世を去りたい。

その最期はいつだろうか?

その前に、先に見送らなければいけない人生の先輩たちがたくさんいる。

まずは、その人たちの希望となるように自分の時代を生きる。

そして、次々とこの世に生を与えられて生まれてくる者たちに、自分の持っているものたくさん与えて与えてその次の未来につなげていく生き方を最期の瞬間までしていく。

本来人間は皆、そうやって命を繋いできたのではないだろうか。

今、ここグアテマラの子どもたちと学びを始めた。この2ヶ月間の奮闘が、彼らの未来の何かにつながっていくと思うと、楽しくて仕方がない。

今の一つ一つの私の行為は、自分の後の世界につながっていくものなのだとを思うと、わくわくする。

別の角度から見ると、それは私にとって死への準備とも言える。

私は毎日生きている。それは、最期という瞬間が必ず私に与えられているから。

私はこんなこと考えて生きています。

変かなぁ。