日々のいろいろ

グアテマラを知り、日常が変わったお話。

この前、いろいろな手続きをしに市役所へ行ったんだけれど、こういう手続き的なものを日本でやるとき、本当にこの国の整った秩序に感動する。

 

市役所でなんのトラブルもなく、めちゃくちゃ迅速に対応をしてくれる方々。

 

声かけも上手で、安心できて、なんの不足もない。

 

でも、多分そんな様子を見て感動しているのは、私だけだろう。

 

だって、日本ではこれが普通のレベルだから。

 

 

できて当たり前。

 

もてなして当たり前。

 

不備がなくて当たり前。

 

 

本当に日本は、「整っている」。

 

そんな環境で28歳まで生きてきたもんだから、それが私はこの世の常識だと勘違いしていた。

 

 

 

世界のほとんどの国では、この日本基準は到底実現不可能である。

 

この社会を実現するために、日本の先人たちの多くの知恵と努力があったことを感じずにはいられない。

 

 

街の清潔さ。

 

義務教育の質の高さ。

 

整備された社会的秩序。

 

 

本当にいろんな歴史の中で、こういう社会ができたんだよなと、

 

そしてそれを作り上げてきた日本人の底力って、本当にすごいなと。

 

 

 

私は、市役所で働く人たちをぼーっと見ているだけで、いっぱいの感動を味わうことができる。

 

それでは、日本の外から日本を見る機会を得られたから。

 

 

 

また、その感覚は日々の日常の中でもある。

 

例えば、蛇口からお湯を出してお皿を洗う時。

 

(こんなにも簡単にアツアツのお湯が手に入るなんて、ありがたいなぁ。)

 

グアテマラでは、アツアツのお湯を手に入れるのは至難の業である。

 

肌寒い気温の中、微妙な温度のシャワーを浴びるのは、なかなか心が鍛えられる。

 

時には、冷水で体を洗うことも。

 

だから、私は蛇口から出るお湯に触れるときは、毎回「ありがたや~」と思っている。

 

というか、思うようにしている。

 

この感覚を忘れたくないと思う。

 

日本のこの当たり前は、決して世界的には当たり前ではないということを、私は忘れずに生きていたい。

 

当たり前のレベルが上がれば上がるほど、自分は傲慢になってしまいそうで、感謝の心を忘れてしまいそうで、なんだか心が貧しくなっていく気がするの。

 

 

 

でも、これはグアテマラの不便な生活を憐れんでいるわけではない。

 

よく、食べ物を残す子に

 

「アフリカでは、食べられない子もいるんだから。」

 

という人がいるが、私はそういう理由で言い聞かせるのは、ちょっと違う気がしている。

 

私たちが食べ物を感謝していただくのに、アフリカの子どもは関係ないと思う。

 

生きているものの命を奪っていただいているのだから、感謝して当然のことと思う。

 

 

 

 

私はむしろ、この便利なものであふれすぎている日本こそ、やばいと思う時がある。

 

帰国直後、コンビニのあの小さな箱の中に入ったとき、怖さを感じた。

 

ここには、人間の欲を簡単に満たしてくれるものであふれている。

 

こんなに楽に、苦労なく、なんでもすぐに手に入る。

 

簡単に欲を満たせる。

 

それが、当たり前の社会。

 

その分、一つ一つの感動も少ない。

 

「生きている」と心で感じられる機会も少ない。

 

 

今あるものでは満足ができず、次の快楽を求めて商品が開発されていく世界。

 

私は、この世界で本当に人間らしく、自分の命を輝かせて生きていけるだろうか。

 

なんだか急に怖くなった。

 

帰国直後は、そんなことをコンビニの中で考えていた。

 

 

 

でも、今ではそんな感覚も薄らぎ、手軽でおいしいアイスコーヒーを目当てについついコンビニによってしまう。

 

私の当たり前基準も、だいぶ元通りに近づいてきたのかもしれないな。

 

 

 

 

でも、今でも市役所に行ったら、日本人の働く姿を見てまだ感動できる自分がいたことが、少しうれしかった。

 

ほかの国の姿を知ったことで、私は日本の姿を前よりも深く知ることができるようになった。

 

 

 

グアテマラは、たくさんのことを教えてくれた。

 

グアテマラのおかげで、自分の国を以前よりも愛せるようになった。

 

この恩返しは、

 

必ずせねばならぬのだ。

 

テッセンという花を、今年初めて認識したのだけど、注意してみてみるといろんなところに生えている。しかも色のバリエーションが実に様々!

感動。