絶望を感じ、苦しさで体が震えるとき、自分の体から音が聞こえる。
文字では表現できない、音。
そのような瞬間が人生で何度かあった。
人には、それぞれに、その人にしかわからない苦しみや傷が必ず人生の中で与えられるのだと思う。
だから、自分の感じていることを、誰かにわかってもらうことで癒さそうとするのは、救いにならないし、私も他人の痛みを本当に理解してあげる力などない。
でも、人間のすごいところは、苦しさとか辛さとか痛みをどうとらえるかを選ぶことができるというところ。
私は思うのだが、苦しさや痛みを経験したら、その深みの分だけ、人を愛することができる人間になれるのではないか。
何の苦しみもしらない、純粋無垢な人も、その純粋さで人を愛することができるだろう。
でも、傷があり、痛みを知る人だからこそ、生み出せる愛もある。
試練の時は、「なんでこんなにも辛い思いをするんだろう?」と人生を呪いたくなる。
たった一つしかない人生なのに、それを生かすことができていない自分が情けなくなる。
でも、人には変えられることと
変えられないことがあって、
変えられないことを無理やりなんとかしようとすると、おかしくなっていく。
だから、そうなりそうだと気付いたなら、自ら「選択」したい。
その苦しみを避けようとするのではなく、真正面から受け止めて、この痛みを自らの生命力を投じて、「愛」にかえていくことを。
きっとそうすることで、自分の個ができあがっていく。
自分にしか生きられなかった人生になっていく。
周りからは、やりたいことを十分やっている人生だと思われていると思う。
でも、私も他人からどう思われるかが気になるし、世間から見て自分の人生を評価してしまうことも常だ。
願っても願っても、信じても信じても、かなわないことが沢山あることも知った。
でも、自分の人生には、自分が責任を持つしかない。
与えられた命をどう扱っていくかは、自分にしか権限がない。
だから、もう一度改めて自分はどういう生き方をしたいのか、
別の言い方をすると、どういう死に方をしたいのか、
その問いと、本当に向き合っていかなければいけないと感じている。
他人の基準がどうであろうと、世間の一般常識がどうであろうと、最後死ぬときに向き合うのは、自分自身との1対1。
自分が納得できる生き方を、自己責任の下で選んでいくべきだ。
あの時こうすればよかったかな…。
とあとになってした後悔がなかったわけではない。
でも、私が歩んできた道、選択してきたことは、その時の私の精一杯の力で出してきたものだ。
その結果が、自分の望むものとは、別のものだったことも多いけれど、それは仕方なかったと思う。
正直に生きることは、結構辛い。
もっと自分をごまかして、時には嘘もつける人間ならもう少し楽に生きられた気もする。
でも、私はやっぱり、最後に「愛」を感じながら、この世を去りたい。
それを感じるには、この世にある愛を感じとることができる心が必要だと思う。
だから、自分の行動、自分の心、自分の想いを、偽ることはやっぱり私にはできない。
その代償として、深く傷つくこともまたこれからあるだろう。
でも、今ある苦しみとか傷も、これから私を待っている試練も、それらは人をより深く愛することができる自分へ変えてくれる財産として、私は受け取っていくことを選択したいと思う。