活動のこと書きたいと思っていたのに、頭に湧いてくるのは全然違う自分の内面のこと。
なぜか今はメキシコの空港で「許す」ことについて考えていた。
私は、ある時に「自分は絶対に許す人間になろう」と決めた事件があった。
よく思い出してみると、そう思った事件は2つある。
ひとつ目は、自分が心から大切だと思っていた人を怒らせてしまい、「もう一生あんたとは、会いたいくない。」と言われて、本当にそれから連絡をとれなくなってしまった人がいる。
私は自分の誠意を尽くしたつもりだったけれど、相手にはそうは感じてもらえずとにかく傷つけてしまったようだった。
ショックで悲しくて苦しくて、自分が最低でどうしようもなかったけれど、これ以上相手の人生を邪魔してはいけないと思い、そうやって離れていったその人の選択を受け入れた。
この件を私は自分の人生でどう捉えようかと考えに考えて、結局こういう結論を出した。
「私は許してもらえないという辛さを痛いほど味わった。それなら私は相手の失敗を許せる人になろう。」
この件に関して、自分にできることはこれしかないと思った。
女々しくごめんを連呼して相手にゆるしをこうのは、逆に相手への敬意がないと思った。
本当に辛かったけれど、私は自分ができる範囲の中で、やれることはこれしかない気がした。
もう一つの件は、友人の死である。
友人は人への憎しみから心が壊れていった。
許せなくて許せなくて、本来の姿を見失っていった。
生きている時にあった時、(もう何もかも許して、楽になってほしい)、そう祈っていたけれど、その願いは叶わなかった。
彼女の死を私はグアテマラで聞き、一人で泣きまくった。本当に苦しかった。
彼女にもっと別の世界があるということを見せたかった。
グアテマラで日々生きることに一生懸命な人の姿をみるだけで、彼女には違う人生があったのではないだろうかと思ったりもした。
憎しみというのは、命を壊してしまうんだ。
私はそう学んだ。
人間やってると、正しく生きようと思っていても、他人を不快な気持ちにさせてしまったり、愛しているのに傷つけてしまったり、失敗だらけだ。
そう、自分も日々失敗だらけ。
誠を尽くそうと思っても、自分の醜いところがやっぱり出てしまったり、不完全さから穴が見つかったり。
どうがんばっても完璧でいられないし、他人を100%満足させることなどできない。
それなら、自分と同じように失敗した人が目の前にいたら、許そうじゃないか。
自分だって完璧にはできないんだから。
許すこと、それは自分自身が自由になるためにきっと誰もが必要なことなんだと思う。
メキシコの空港では、毎回ランダムで見られる荷物検査に引っかかる。
無礼な態度のセニョーラにキレイに詰めたスーツケースをグッチャグチャにかき回されて、疑いに疑われてなんとかGoさせてもらった。
不快でした。
でも、許しましょう。
きっとあなたも疲れていたんですね。疑いながらスーツケース見るのがあなたの仕事なんですもんね。
私は許す人間になる。
そう決めたなら、そう生きろ。