最終発表会が終わりました。
まだしっかり振り返られていないのですが、今回も私はめちゃくちゃ緊張していました。
皆さんからは「前より堂々としていたね!」、「なんか慣れてきた感じだね!」という印象だったとお言葉を頂きましたが、まったくそんなことはなく、全然慣れていませんし、心臓バクバクでした。
でも、どの瞬間もよかった。
グアテマラの先生方の言葉には、みな力があった。
(あとで聞き返したら、大事なところしっかりと通訳できておらず、しまったぁ~と思いました。)
子どもたちの前のめりの姿勢も伝わったようだ。
それにしても、日本とグアテマラの子どもたちによるライブトークは絶賛されました。
初めに、プログラム内容を考えているときに、ただ用意した英語を読むだけの発表は悪くはないけれど、子どもたちの良さが伝わり切らないだろうなぁと思って、もっと見ている人がハラハラドキドキするようなことがやりたいなぁと考えていました。
そんな中から生まれた「子ども同士のライブトーク」。
たった3分だけの会話でしたが、3ペアそれぞれに互いを理解しようとする姿勢だったり、伝えたいっていう気持ちだったり、そういったピュアで美しい目には見えない何かを6人の子どもたちから見せてもらったようで、本当に素敵でした。
それにしても、不思議な縁だなぁと思いました。
昨日、あの3ペアの子どもたちが生きているうちに会話をする確率ってどれだけのものだったのだろう?
グアテ子ども⇔パイロット校⇔グアテマラ⇔私⇔協力隊同期⇔里親さん⇔日本子ども
ただただ生きていたら限りなく出会う可能性が低かった6人の子どもたちが、ネット内でこうして英語というツールで互いのことを伝え合えた時間って、なんて尊いんだろう。
この出会いもすごいし、やはり世界の人と人をつなぐことができる「英語」というアイテムは本当に素晴らしいと思う。
まさに、私が思う「幸縁」がここにある。
最近でこそ、この「幸縁(しえん)」という言葉を人前でよく使っているのだけれど、この言葉が生まれたのは、今年の4月でした。
その時に、いろいろな人にインタビューしているときに「支援」って言葉の違和感を感じたのです。
なんとなく、偉い人が貧しい人に与えてるようなイメージがあって。
それから、こういうことって、同情だけでやるものではないと思ったのです。
確かに、物質的な貧しさは、人の可能性を狭めることもあるけれど、貧しい人に価値がないわけではないし、魅力がないわけではない。
むしろ、私は今回このプログラムで経済的に豊かではないグアテマラの子どもたちと一緒に学んできて、一人一人の人としての魅力を感じずにはいられませんでした。
それは、日本人が見失っているものであることが多いと感じました。
だから、確かに困難が多い人を支えたいという気持ちは人として美しいものだと思うけれど、「こっちが与えている」という一方的なもので終わるべきではないと思ったのです。
ですから、支援という言葉のイメージから抜け出して、双方の価値のあるつながりが「幸縁」だと思ったんです。
最終報告会では、初めて皆さんに具体的な資金のお願いをしました。
でも、それはかわいそうだからって思いだけではなく、この魅力いっぱいのグアテマラとつながる人生に価値があると感じてくださった方に届いてほしいと思いでお話させていただきました。
今は、規模も大きくないけれど、確実にこのプロジェクトにかかわっている人たちの中で変化が生まれつつあると感じています。
それは、規模が大きくないからこそ、実現できていることでもあるのかもしれません。
私は私の身の丈にあった分だけ、その分だけできる限りの力で、この地球に幸縁を作っていきたいなぁと思っています。
最終報告会にご参加いただいた皆様、本当にどうもありがとうございました。
このご幸縁に感謝します。
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「幸縁」という言葉が生まれた日のブログ(2021年4月4日)