笑顔って、鏡のように反射するものじゃないですか?
最近、そんなことを感じます。
ここに来て、笑顔が上手になった気がします。
上手っていうのも変なんですが、自然とニコっとすることが多くなった。
鏡で自分が笑っているときの顔を見たわけではないんですが、なんか自分の笑顔に磨きがかかっている気がしています。
というのも、ここにいる人たちの笑顔がめっちゃ素敵だから!
大人も子どもも笑顔にくもりがない。
道ですれ違う人、
目があえば
「ニコー」(⌒∇⌒)
いたずらっ子、さっきまでけんかしていたのに私を見たら
「ニコー」(⌒∇⌒)
道端で果物うっているおばあちゃん、あいさつすると大きな笑顔で
「ニコー」(⌒∇⌒)
こんなふうに人って、誰かに笑顔を向けられると自然とこっちもおんなじ顔になるもの。
だから、私も誰かの笑顔が反射して毎日毎日
「ニコニコー」(⌒∇⌒)
笑顔の回数が断然増えた気がしています。
日本はどうですか?
皆さん毎日笑顔でいますか?
笑顔を向けられないのなら、ぜひ自分から笑顔であいさつしてみてください。
きっと笑顔を与えられた人は、、おんなじ顔を見せてくれるはずです!
小さな幸せ、たくさん感じるグアテマラです。
先週から、その週の活動報告をまとめた「週末報告書」を市と県の教育事務所宛に自主的に書いています。日本ではあれだけ、週案(日本の教員は毎週これを書いて総務に提出しなければならない。たぶん自分の市以外でも?)をめんどくさがって、毎週適当に書いていた私ですが、同じようなものを自主的に書くなんて。
でも、活動や感じたことを記録していくってすごく大切なんじゃないかと最近思っています。それってその時にしか感じられないことだし、歳をとるにつれて、記憶ってすぐ消えていく。そんなとき、なにか形になるものがあれば、自分の経験がちゃんとよみがえるし、何か新しいものを生み出したいと思うときにも役に立つ。
そもそも「自分の経験」ってものほど、価値あるものはないのかも。
だって、それはこの世で自分しか感じられないこと、経験できないことなんですから、なによりも財産のあるものだと感じています。
だから、このブログを書く意味もそうなんですが、そういうものを大切にしたいという思いから、日々、いろんなものを私は文字にして残すようにしています。
さて、話を戻して、今朝この週末報告書を書くにあたって、あるスペイン語のフレーズを辞書で調べました。
「No tiene sentido.」
(意味がない)
この言葉を今朝知った私。
そして、今日一日でこの習いたての言葉を5回くらい使っていた私。
というわけでこのフレーズ、この国でめっちゃ使えることが判明。
つまり、「筋が通っていない」ことが山ほどこの社会には存在しているってこと。
いくつかあったけれど、そのうち2つ紹介してみたいと思います。
(ちょっと複雑な話なので、うまく説明できるかわかんないけれど…。)
一つ目。
私があるパイロット校の校長先生に来週からいろんな学校へ訪問するつもりって話をしたら、それはいいね、ぜひいろんな学校の状況を知った方がいいって。
ある学校では、小学校なのに中学校のように一つの教科に特化した先生をつくっていて一人の先生が4,5,6年生の算数を教えているとのこと。社会や国語などはこれまた一人の先生が複数学年教えているんだって。
グアテマラでも本当はこんな仕組みはないし、この学校だけが勝手にこのシステムでやっているそうな。
このシステムの是非はともかく、それに起因して奇妙なことが起きています。
今年からこの市内で始まった全学校での研究授業。どの先生も自分の学年で算数の授業をほかの先生に見せることが義務づけられました。
すると、何が起こったかというと、いつもは別の教科を教えている先生が、研究授業の日だけ算数を一時間教えるという事態。たまたまこの授業を私も見に行ったのだけれど(その時は、こういうシステムが背景にあるということは知らなかった。)、確かにひどかった。最初から、私は算数はできないからってコメントし、子どもたちも内容が簡単すぎてとってもつまらなそうだった。子どもたちは一時間大人たちの小劇場に付き合っていた感じ。
で、そのあとも協議会などしたのですが、結局その先生、そのあともう二度と算数の授業することはないし、もっとこうした方がいいんじゃないかとかアドバイスしてもはっきりいって意味がない。
この話を聞いたとき、まじで「¡No tiene sentido! (意味ないや~ん)」って思った。
この授業を観察するために、ほかの先生は子どもを早く帰らせて、授業も削ってきているというのに、一体なんのためにこれやってんの?ってばかばかしくなってしまう。
奇妙な話です。
2つ目。
この市では、小学校の算数委員会ってものがあって(ちなみに委員会は全教科にあるわけではなくて、読書委員会と算数委員会のみ)、今市内で行われている研究授業もこの委員会のメンバーが主となって動かしているものなんですが、なぜかその8人のメンバーのうち2人が幼稚園の先生。
前から、なんでだろう?と気になってはいたのですが、ようやくその全貌が判明。
そもそもこの委員会は、パイロット校の先生たちが参加した他県で行われた研究授業に関する研修にたまたま?代表としていった先生たちで構成されているのですが、そのうちの一人は、昨年までは小学校の先生だったんだけど、児童数の減少で小学校で教員が余ること
になったので、幼稚園の先生にまわることになったと。こちらは来年小学校教員に戻る可能性もあるので、まだいいとして、問題はもう1人。以前委員会に入っていた人は、ある校長先生だったんですが昨年退職してしまってこの委員会から外れた。で、次の校長先生になったのが、幼稚園の先生(グアテマラでは、小学校に幼稚園が付属していることが多い)。そういうわけで幼稚園教諭なのに自動的にこの役を引き継ぐことになったとか。
小学校の算数教育の話なのに、小学校の教壇に立つことはない先生がこのポジションについているというのが、非常に奇妙。
だって、小学校教員の免許もないし、そのための勉強もしていないし、今後そのスキルを使う機会もないし…。
なのに、市全体を動かしていく小学校の算数委員会に入っている。
しかも委員会の任期は4年間。
あと3年もこの奇妙な人員配置を本当に続けていくのだろうか。
「No tiene sentido. (意味なくない?)」
本人たちも、ちょっとおかしいとは思っているが、上が言うことだからととりあえず従っているようです。
でもなぁ…。
昨日、「状況を受け入れる」といったばかりなのに、やっぱりもっといい方法があるんじゃないかなって思うことがたくさん。
状況を受け入れることと、問題視すること、この2つは、すごく微妙で難しい。
受け入れた上で、問題視すればいいのだろうか。
受け入れた上で、それに順応すればいいのか。
とりあえず、私にとってはなんかずれている?筋が通っていない?と思うことが多すぎて、習いたての「No tiene sentido」は使う機会がありすぎます。
このフレーズは今日一日で、新たなスペイン語として私の脳みそにしっかりと収納されました。
でも、そういうNo sentidoシチュエーションに出会う度に、物事の本質は?といちいち考えることになるので、今までは気にもしてこなかったことなどを改めて考える機会になるので、おもしろいと言えばおもしろい。
日本は、筋が通り過ぎて、話がスムーズに流れすぎて、なにを本当に大切にしたいのか?と自分に尋ねる機会が少ない。
なにも疑問視しなくても、なんとなく周囲の流れに乗っていればなんとなくそれなりの人生が送れてしまうから。
だから、こんな筋の通らない世界で生活する経験は、日本人にとってはとても学ぶことが多いようです。
って、ことで今日もグアテマラに感謝。
グアテマラ学校では、いろんなものを作る時間が多いように感じます。
今日は天体模型を作っている4年生、
グアテマラの地図を作成する6年生を見ました。