心と会話

借り物の人生

先日、ふと自分は、すごく大きな勘違いをしているのかもしれないと思った。

自分の人生、自分のものだと思ってきたが、

私が持っているすべて物は、借り物だったのかもしれないと。

 

人間、痛みを伴う時は、たいてい持っていたものを失う時ではないだろうか。

大切にしていたモノが壊れたり
ペットや植物など、愛をかけて世話をしていたものが死んでしまったり、
愛する人とのお別れや
健康や若さなど、過去にあったものがなくなっていくことだったり、

形はいろいろであろうとも、以前は「持っていた」何かを「失う」ときに人は、苦しみ、痛みを感じると思う。

でも、そもそも人間は生まれたとき、何も持たずにこの世にやってきたんだ。

そこから、食事を与えてもらい、服を着させてもらい、自分で考える力を養ってもらい、働く場所をいただき、自分で生活する力を身につけさせてもらい、素晴らしい人と出会わせてもらい、愛を学ばせてもらい、誰かと笑顔で過ごす幸せを感じさせてもらい…。

でも、はじめはゼロだった。

ゼロでこの地にやってきたのだ。

だとしたら、「私のもの」と言えるものって本当はあるんだろうか?

もしかして、今手にしているすべてのものは、一時的に「借りている」ものなのかもしれない。

人間、死ぬ時だって、何も持っていくことはできない。

この世に生きているときにだけ、何かを「一時的に」所有できるかもしれないが、すべてのものや人と最後には別れがやってくる。

最初から「私のもの」と思っていると、別れが本当に辛い。

自分の一部がなくなってしまったようで、苦しくなる。

自分の子どもも恋人も友人も、
自分の体も服も知識も体力も、

自分の所有物ではない。

きっと借り物なんだ。

そして、いつかは、お返しする時がくる。

だとしたら、それらを持たせてもらっている間に、与えてもらったものを丁寧に扱い、できる限りの愛を示し、お返しする時までに、その恵みを喜び、自分や相手の人生が輝くように努めて生きることが私たちの使命なのかもしれない。

そして、突然、お別れが来ても、文句を言わず、出会わせてもらったこと、与えてもらったことを感謝する。

 

自分の所有物など、何一つないのだと、心から理解できたら、

そういう態度で生きることができるのかもしれない。

 

そんなことを、先日ふと思ったので、書き留めておきたいと思った。