ここ1か月くらい、自分の気持ちをうまく言葉にできないでいる。
本当は、書き残したいことがたくさんある。
ありすぎる。
しかし、いい言葉が見つからない。
心から言葉が出てこない。
私がブログに何かを書くときは、心で感じた想いと思考が言葉となってあふれてくる時なので、どれだけ書いても疲れないし、いくらでも出てくる。
でも、ここ最近は、どうも何かを書こうという気になれない。それは、なぜなのだろう…。
そういう時は、言葉を出すことではなく、吸収する必要があるときなのかもしれない。
きっと、私の中に言葉が足りていないのだ。
美しい言葉に出会う必要があるときなのだ。
私は、日本から3冊の書籍を持ってきた。(本当は、もっと持ってきたかったけれど重量オーバーのため、泣く泣く3冊まで絞った)
この3冊を代りばんこで読んでいる。
今日はそのうちの1冊『人生論』(武者小路実篤著)を読んでいた。
言葉が美しい。
言葉の純度が高い。
言葉の中にある真実がすっと心に入ってくるのだ。
そうやって美しい言葉に出会うと私は、文章を朗読したくなる。
文字を音声にすることで、より作者の息を感じるから。
今日の朗読。
30章 なぜ死への恐怖があるのか
自分の中の言葉にできない思想や思いを、こうして先人が時間をかけて言葉にしてくれていることに感謝する。
こんな話題は、きっとみんなしたくないと思うだろうし、世間では真面目な話はうっとうしがられる風潮もあるので、普段はあまりできない。
でも、本の中には私のことをわかってくれる人がいるようで心が落ち着き、安心感が生まれる。
かつて、表面ばかり気にして生きている人たちの集団の中で、大多数の力に流されず生きることにまっすぐで、自分の生命に対して誠実に向き合っている人と同じ時間を過ごした時期があった。
あの時に、私という人間が目覚めはじめたと思っている。
その人とは、この先同じ時間を過ごすことはもうないだろう。
でも、こうして今日も別の場所でその人が、私欲を捨て、自分の命を燃やすことだけに一生懸命になり、今を精いっぱい生きているのだろうなと想像するだけで、私の背筋もピンとなる。
私の存在を信じ抜いてくれたその人に、恥じない生き方をしたいと思う。