新聞記事

「死」が身近な国

グアテマラにいて思うのは、日本よりも「死」というものが身近にあるということ。

私が隊員だった時も、村の先生や知り合いの親戚、時に学校の子どもが突然亡くなったと聞くことがありました。

中には、ちょっと調子が悪いからと言って病院へ行き、何かしらの注射を打った後に、突然体調が急変し、亡くなったという話も聞いたことがあります。

 

今、お世話になっているところのママさんは学校の先生なのですが、すでに同僚が3名コロナで亡くなっているとのこと。

そのため、ママさんは結構神経質になっていて、私にも絶対に人ごみに行くな、マスクは2重で、帰ってきたら消毒をするなど、いろいろと注意をしてくれます。

また、今日新聞でも読みたいなと思って、そこらへんで売り歩いているおっちゃんから50円くらいで一冊新聞を購入してみたのですが、表紙から事故で亡くなった死体の写真。

中をめくっても、どこそこの村で殺人があっただとか、事故があっただとか、もう死体の写真ばかりで(さすがに、顔は隠れている)、もう見るの嫌になりました。

(私が買いたかったのは、「プレンサリブレ」という世界や国についてのニュースなどがのっているものだったのですが、街で売っていた新聞は「ディアリオ」というスキャンダル的な人の気を引くような内容が詰まった新聞だったので、仕方なくそれを買いました。でももう買いたくない。)

とにかく、グアテマラにいると死というものを身近に感じることが多いです。

でも、実はそれって普通のことなのかなとも思います。

むしろ、日本の生活は、安全すぎてすべての生き物に当然のように与えられている運命である「死」というものを考える機会が極めて少ないと思います。

それは、いいことなのか悪いことなのかというのは、人それぞれだと思いますが、私個人としては、自分の人生の最後をどう締めくくりたいかということについて考えることは、大切だと思っていて、逆にそれを考えない限りは、本当の意味で「生きる」ということもできないと思っています。

ですから、私はここグアテマラにいて死というものを向き合うときは、同時に生にも向き合える時間だと思っています。

 

グロテスクな新聞を見て、そんなことを考えてみたセニョリータでした。